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死の連鎖、呪われたサークル“27クラブ”

出典:uafirenze.wordpress.comの記事を元に加筆しています。

27クラブ(呪われたサークル)
悲劇的で神秘的な状況下で死亡したロック・スター達の年齢が27歳と言う事から名付けられた。

統計学的に分析しても27歳でこの世を去る確率がロック・スターに限るわけではないのだが、あの一世を風靡したカート・コバーンの衝撃的な自殺から熱狂的なファンや関係者及びマスコミにも死の連鎖の記憶が再び蘇り、混乱し何か理由を見出そうとした人々が名付けたのが始まりだとも言われている。

たぐい稀な才能を持ちながらも27歳という若さでこの世を去ったロックアイコン達の死を受け入れられない気持ちから、現在までには生存説・陰謀説・他殺説から悪魔の呪い等のオカルト説まで伝聞される事になる。

Amy Jade Winehouse(エイミー・ジェイド・ワインハウス)

1983年9月14日 - 2011年7月23日  満27歳没

Images ©100jazzdiva.com

エイミー・ワインハウス(本名:エイミー・ジェイド・ワインハウス)は、1983年9月14日にイギリスのロンドンで生まれたイギリス人シンガーソングライター
19歳でリリースした『フランク』(2003年)でデビューと同時に一気に注目を集め一躍トップスターとなり、エイミーは人生で5度のグラミー賞に輝いた。

2007年に根っからの薬物及びアルコール中毒者だったブレイク・フィールダー・シヴィルと結婚、その夫の影響でクリーンだった生活は激変し、自らもアルコール依存症を患い、常に酩酊状態に陥ったエイミーは支離滅裂な言動でゴシップ誌の格好のターゲットとなった。

エイミーは2011年7月23日にロンドンの自宅で急死し、遺体で発見されている。エイミーの検死は死後にすぐ行われましたが、その時点ではっきりとした原因はわからず、長らく正確な死因は不明なままでした。しかし、2013年に改めて検死が行われ、正式にアルコール中毒による死亡だと断定されている。

Robert Leroy Johnson(ロバート・リロイ・ジョンソン)


1911年5月8日 - 1938年8月16日 享年27歳

ロバート・ジョンソンはアメリカのブルース歌手で驚くほど短期間にギターが上達したと言われ、若い頃から卓越したギター・プレイと鬼気迫るボーカルで他のミュージシャンを圧倒してきた。

「十字路(クロスロード)で悪魔に魂を売り渡して引き換えにテクニックを身につけた」と噂された伝説のギタリスト。ここで言う十字路は、ミシシッピ州クラークスデイルにある十字路(クロスロード)だと言われている。

1936年と1937年の2度にわたるレコーディングで名声を極めた。
俗説が多く死因は不明だが「ダンスパーティーで知り合った人妻と不倫をしたため、夫により飲み物にストリキニーネを盛られて毒殺された」、「人妻との情事を夫に目撃されてその場で刺殺された」などの説が知られている。

すでに女癖に関して悪評の高かった彼は、有名になったことで一段と手のつけられない存在になっていく。1930年の夏、彼はハニー・ボー イ・エドワーズと共に、”スリー・フォークス”というジューク・ジョイントで数週間演奏するためミシシッピ州グリーンウッドに向かった。

この店のオーナーの妻は情熱的で、ロバート・ジョンソンの女癖の悪さに瞬く間に火を点けた。グリーンウッドの町でデートを繰り返す2人の仲は、間もなく店のオー ナーである夫に知られることになる。

1938年8月14日の夜、嫉妬に狂った夫は店に出演していたロバート・ジョンソンに毒を盛ったウィスキーの小瓶を手 渡し、彼は疑いもせずこれを飲んだのだった。もがき苦しみながら2日間はなんとか持ちこたえたが、8月16日、天才ブルースマン、ロバート・ジョンソンは 肺炎を発症して、わずか27歳でこの世を去ったという話しが伝えられている。

しかし、ロバート ジョンソンの死は不可解であり、ミシシッピ州グリーンウッドの役場に提出された死亡届には、死因に「No Doctor」とだけ記載されていて直接的な死因は不明であった。

その後、彼の遺体はグリーンウッドの町はずれにあるリトル・ザイオン・バプティスト教会の墓地に埋葬された。

27クラブ(呪われたサークル)の最初のメンバーとも言われている。

今朝早く、お前がドアを叩いた時に、
俺は言った、「やあ悪魔、出かける時間だね」
俺と悪魔は並んで歩いた…
ロバート・ジョンソン "Me And The Devil Blues"三井徹訳

伴奏者がいると思っていた。一人で弾いていることが解り、この曲ばかり数日猛練習をした。でも真似ができない。大体は真似ができるが、完全でない。
一生掛かかる。コピーがライフワークになる。どうやって弾いているんだろう・・・
by キース・リチャード

Lewis Brian Hopkins Jones(ルイス・ブライアン・ホプキンス・ジョーンズ)

1942年2月28日 - 1969年7月3日 享年27歳

ブライアン・ジョーンズは、生きる伝説「ローリングストーンズ」の元ギタリストで初代リーダー。IQ135の頭脳を持ちブルース・ギターの天才として有名で、誰もが驚くスライド・ギターのテクニックを誇った。

ボ・ディドリー・スタイルのギターを弾かせたら世界第2位であった。1位はディドリー本人。

ローリングストーンズというバンド名はブライアンによって名付けられたと言われている。 マディーの曲「ローリングストーン」からとったらしい。

ずば抜けた楽器演奏能力とカリスマ性でバンドを牽引してきた彼だが、音楽性の相違やドラッグ中毒などによりメンバーの中で孤立。彼の最後のステージとなる「ロックンロール・サーカス」というストーンズのライヴにおいて、彼はとても哀しそうな虚ろな目でただただマラカスを鳴らしていた。

常に新しい楽器に興味を示し、30種類以上の楽器を操るほどだったが、ギターから離れたブライアンはギターの腕を鈍らせ、キースにリードギタリストの座を奪われた。 その後、バンド内に自分の居場所を見失ってきた頃からドラッグへの依存度を加速させていた。

そして1969年6月、ついに解雇を宣告される。
7月2日の深夜12時を過ぎた頃、自宅のプールの底に沈んでいるのを発見される。死因はアルコールとドラックによる溺死と発表された。

ブライアン他殺説

アルコールを飲み、鎮静剤を服用していたブライアンは真夜中に近い頃、泳ぐためにプールに向かった。看護婦のジャネット・ローソンは泳ぐことをとめたが、ブライアンは無視した。

ブライアンは1969年7月2日の深夜12時を過ぎた頃、、南部サセックス(Sussex)の自宅内にあるプールの底に沈んでいるのが発見され、医師が到着したときにはすでに息を引き取っていた。

ブライアンの体内から検出されたのは3.5パイント(1パイントは約0.5リットル)のビールだけで、違法なドラッグは見つからなかったが、検死官はアルコールとドラッグの影響で溺死したと結論づけ検死の答申書では事故死と記録される。

その後、ガール・フレンドだったウォーリンはブライアンが死亡した当時一緒にいた建築業者フランク・サラグッドがブライアンを殺害したと主張。フランク・サログッドはブライアンを見張るためにラウンジ・チェアに体を伸ばしていたが、ブライアンがスイスイと泳いでいるのを見て、タバコを取りに家の中に戻ったと語っている。

サラグッドも1993年に亡くなる直前、自分がブライアン・ジョーンズを殺したと告白し殺害を認めたと言われるが確認はなされていない。

ブライアンの遺体を発見した看護婦のジャネット・ローソンも別の証言をしている。彼女は、ブライアンのボディガード、フランク・ソログッドがプールに飛び込み、ブライアンに何かしているのを見たと話した。彼女は彼がブライアンを殺したことを確信していたという。

そのソログッドも1994年に死亡しており真相は闇の中に.......

ソログッドの元ガールフレンドでタクシードライバーのジョーン・フィッツシモンズはブライアンの死から3週間後、何者かに襲われて放置されるという何かの警告とも受け取れる被害にあっている。

その後、長い沈黙を破りブライアンの死についてメディアに発表しようとしていたらしいが、何も語らないまま2000年に死亡している。

彼がブライアンから目を離したのは、ほんの数分だったが、プールに戻ってみるとブライアンは身動きひとつせず、プールの底に沈んでいた。
「ミック・ジャガー」(アンソニー・スカデュト著)より

彼は本当に、何も残さなかった。
才能があると言われながら、M・ジャガーとK・リチャーズの嫉妬により、才能を発揮させられなかった。そこが、何も残せず世を去った、あるいは去らねばならなかった彼の死を魅力的に見せるのは否めない。

James Marshall Hendrix(ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス)

1942年11月27日 - 1970年9月18日 享年27歳

“左手で握手してくれ。こっちの方がハートに近いから”
キング・クリムゾンのライブを見たジミヘンが、楽屋でロバート・フリップに一言。

言わずと知れたギターの神様、ジミ・ヘンドリックスは、1970年9月18日、ロンドンのアパートで、睡眠薬の多量摂取による呼吸困難により死亡。デビューからまたたく間にスターとなり、約4年という短い活動期間で生涯を終えることになった。

謎の死の真相なのか?
ジミ・ヘンドリックスのローディーとして雇われていたジェームズ・ライトが、ジミヘンはマネージャーのマイケル・ジェフリーに殺害されたと証言している。

ライトは6月に刊行される自身の著作『Rock Roadie』で、ジェフリーが保険金を受け取るためにジミ・ヘンドリックスに繰り返し睡眠薬とアルコールを与えて殺したことを自分に告白したと書いている。

ジミ・ヘンドリックスは1970年9月に急逝。彼の死体が発見されたのはロンドンのサマルカンド・ホテルの一室。数日前から行動を共にしていたモニカ・ダンネマンが予約した部屋だった。

ジェフリーがこの告白をしたのは1971年だとライトは書いている。ジェフリーはその2年後に飛行機事故で亡くなった。「今でもあの会話をありありと思い出す。長年付き合ってきたあの男の姿、その青ざめた顔、感情のほとばしりに耐えながらグラスを握り締める手」

ライトによれば、ジェフリーは次のように話したという。「ジミが死んだ夜、俺は数人の古い友人とロンドンにいたんだ……俺たちはホテルのモニカの部屋に行き、ひとつかみの睡眠薬を手に取って奴の口に詰め込んだ……そして気管に赤ワインを2、3本流し込んだ」

当時、ジェフリーはジミから首にされるのではないかと不安になっていたという。メール・オン・サンデー紙によれば、その少し前に彼はジミに対して自身を受取人とした200万ドル(当時の7億2000万円)の生命保険をかけていた。

「やるしかなかった。ジミは俺にとって生きてるより死んでるほうがずっとありがたい存在だった」とライトはジェフリーの告白を伝えている。「あの野郎は俺の元を去ろうとしていた。もしそんなことになったら、俺はすべてを失ってしまうことになる」

ジミ・ヘンドリックスの死について、当時の検視官は死因不明の評決を出している。その報告書では、死因は「バルビツール中毒および吐瀉物の吸飲」と推測されている。

ジミ・ヘンドリックスは、シアトル郊外の〈Greenwood Memorial Park〉に埋葬されており、現在もロックの聖地のひとつとして、多くのファンが訪れる場所となっている 。

epilogue
友人のエリック・クラプトンは彼にプレゼントするため、左利き用のストラトキャスターを用意していたが、それがジミの手でプレイされることはなかった。

Janis Lyn Joplin(ジャニス・リン・ジョプリン )

1943年1月19日 - 1970年10月4日 享年27歳

“自由とは、失うものが何もないこと”
常に愛される事を望みながらも孤独感を感じ続け自らのコンプレックスに押しつぶされそうになりながらも放った重い一言。

絞り出すようなハスキーな声で、驚く程のレンジの広さを持つ魂のシンガー、ジャニス・ジョプリン。

衝撃的なデビューから3年後の1970年8月12日、ジャニス・ジョップリンが生涯で最期のライブ・アクトを行っている。

キャパシティ1万人のハーバード大学のスタジアムに、なんと4万人のオーディエンスがジャニスを一目見ようと殺到した。誰もが熱望したステージは壮絶を極めたようで、泥酔したジャニスは歌詞を忘れ、アンプ類の盗難にあったバックバンドは、脆弱なサウンド環境の中での演奏を強いられていた。

ランドマーク・モーター・ホテル 105号室

1970年10月3日、
「生きながらブルースに葬られて」のレコーディング日。

快調にオケの録音を終了。
次の日に行われるジャニスのヴォーカル録音の準備を整え、メンバーは23:00に帰宅。

ジャニスは泊まっていたホテルに戻る前、 いつものように「バーニーズ・ビーナリー」というバーに立ち寄った。

レコーディング中もスタジオで飲んでいたのだが、そこのカウンターで2杯の酒を飲み、その後ホテルに戻る。

普段、 仕事の後に泳ぐことも多かったジャニスだが、 その夜は泳がずに、午前1時頃、タバコを買いにロビーへ行っただけだった。

自分の部屋に戻ったあと、ジャニスはブラウスにパンティという姿でベッドに座る。

そして横のテーブルにタバコを置き、お釣を手に持ったまま、彼女は前に倒れた...。

その時、テーブルにぶつかり、唇が切れた。

ジャニスリンジョップリン死亡。享年 27才. 1970年10月4日. 秋。

奇しくもジミヘンの死から2週間後に稀代のロックスターを続けて失ったことになる。
死後十数時間経過してマネージャーに発見されたジャニスの手にはタバコを買った時のつり銭、4ドル50セントが握られ、傍らには封の切られていないマルボロが転がっていたという。

ドラッグに溺れていたジャニスは自分の死を身近に感じていたのか遺言を残している。
それには自分の死後、火葬にして大平洋に灰をまいてほしいと書かれていた。

遺言通り亡骸はハリウッドで火葬にされ、遺灰はカリフォルニア州マリン郡の沖合いに飛行機から撒かれた。

彼女の亡骸は家族の元に届かず、残された家族は、自分達に対するジャニスの家族愛の無さに苦しんだと訊く。

James Douglas Morrison(ジェームズ・ダグラス・モリソン)

1943年12月8日 - 1971年7月3日 享年27歳

“混沌に魅了されない人間なんているのかい?”
ジェリー・ホプキンスによる『ローリング・ストーン』誌でのインタビューから

ジム・モリソンは、1960年代半ばから70年代前半までのわずかな活動期間ながら、センセーショナルな佇まいと、オルガンを前面に打ち出した唯一無二のサウンドで世界中を席巻したロサンゼルス出身の4人組、ドアーズのボーカリスト。

代表曲に1967年の全米ベストでは2位となり、ドアーズの人気を決定付けた「Light My Fire/ハートに火をつけて」がある。

文学青年ならではのインテリ(IQ149)な発言と歌詞に、強い美意識。その大胆なファッション・センスも含めて、彼は「狂気」という仮面を被ることでメディアをコントロールし、バンドをブランディングした。しかしその反面、泥酔、過剰摂取してのライブパフォーマンス、レコーディングも多々有り、数々のブートレグ、いくつかの公式音源でその醜態は記録されている。

彼の遺体は、オスカー・ワイルドやバルザックなど文豪が眠るパリのペア・ラシェーズ墓地に埋葬され、名実ともにジム・モリスンは伝説となった。

カリスマ・ヴォーカリストの最後

1971年、ジム・滞在中だったパリのアパートのバスタブの中で死体となって発見される。
ドラッグのオーバードーズ(過剰摂取)が原因と言われているが死因についての証言は当時同棲していたパメラ・カーソンによるもので、変死にもかかわらず何故かフランス警察による検死がおこなわれていない。
(一説ではパメラ・カーソンが検死を拒否したとある)

不可解にも6日後に死因は心臓麻痺であると正式発表されている。
パメラ・カーソンは「妻」ではなかったけれど、ジムの遺産とロイヤリティの受取人だったことから世間からは疑惑の目を向けられていた。

死の2日前にパリで投函された手紙を受け取ったジムの妻、パトリシア・ケネリーはジムを殺したのはパメラだと確信していた。

パメラがジムがほしがったコカインではなく意図的に大量のヘロインを与えて殺した(ジムが自分を捨てて妻のパトリシアの元に返ろうとしたのが動機)という説もある。

当初、混乱を恐れての配慮からか秘密裡に埋葬されたこともあって本当に死んだのかどうかということが疑われ、さまざまな憶測が飛び交った。このため今でも彼は生きている、と信じる狂信的なファンも居るという。

奇妙な世界を駆け抜けたジム・モリソンの突然の死をもってバンドは解散

パリのクラブ、ロックンロール・サーカスで当時マネージャーだったサム・バーネットという人物が現場で一部始終を目撃していたものの、オーナーに口止めされていたと主張。

彼が書いた「ジ エンド:ジム モリソン」という著書のなかで「本当の死亡場所は、クラブ「ロックンロール・サーカス」のトイレの中。死因はヘロイン。当時クラブにはヤクの売人がたくさん出入りしていたため、警察の手入れを恐れたクラブ・オーナーの指示で、自宅の浴室に死体が運ばれた」とある。 奇妙な世界を駆け抜けたジム・モリソンの突然の死をもってバンドは解散

パリのクラブ、ロックンロール・サーカスで当時マネージャーだったサム・バーネットという人物が現場で一部始終を目撃していたものの、オーナーに口止めされていたと主張。

彼が書いた「ジ エンド:ジム モリソン」という著書のなかで「本当の死亡場所は、クラブ「ロックンロール・サーカス」のトイレの中。死因はヘロイン。当時クラブにはヤクの売人がたくさん出入りしていたため、警察の手入れを恐れたクラブ・オーナーの指示で、自宅の浴室に死体が運ばれた」とある。

epilogue
パメラ・カーソンの願い出によりジム・モリソンの死亡証明書にはこう記された。

“詩人 ジェームズ・モリソン”

ジム・モリソンの詩作の最大の理解者にして恋人だったパメラ・カーソンも3年後、同じ27歳でヘロインのオーバードーズで死亡、彼女の両親はジムの横に埋葬したかったようだが、法律的にフランスへの遺体の搬送は許可されなかった。

イギー・ポップはそのバンドを見た事を誇らしげに語っていた。リンダ・ロンシュタットは、その日、はいていたぼろぼろのレザーパンツが元々モリソンの物だったと自慢していた。

Kurt Donald Cobain(カート・ドナルド・コバーン)

1967年2月20日 - 1994年4月5日 享年27歳

“覚えておいてくれ。 消え去るより、燃え尽きたほうがいいんだってことを”
遺書とされるノートに書かれていたニールヤングのヘイ・ヘイ、マイ・マイの歌詞からの引用と思われる言葉。

1992年1月12日。ニルヴァーナのアルバム売り上げが全米1位をマークした記念するべき、この夜にカートは麻薬を多量摂取して昏睡状態になり病院に運ばれた。これが、彼にとって最初の「致死量レベルの麻薬多量摂取」だった。

1994年4月5日にシアトルの自宅のガレージで自らの口にショットガンの銃口を突っ込み、足の指で引き金を弾いた。
人気絶頂のさなかに自ら命を絶ったとされる“ニルヴァーナ”のボーカル、カート・コバーンの死には様々な謎がある。しかしカート自身、双極性障害(躁鬱病)と診断されるなど様々な問題を抱えていたことが知られている。

死の直前のカートの精神状態は非常に危く、パジャマ姿で歩き回る等の奇行が目撃されていたという。

本当に自殺だったのか?謎の多いカート・コバーンの死
コーテニー ラブ との離婚を決意していたカートしは、シアトルを去る事を決め、弁護士との間で遺書を作成してたがサインをする前に死亡している。

カートが発見された時、1枚のクレジットカードが無くなっていた。
3日にコーテニーがキャンセルしたこのカードは、8日に発見される直前まで誰かが使おうとしていた形跡がある。

自殺に使用された銃はカートがリハブ L,A,に行く前に防犯用としてダイランが買い与えたものという説と1994年3月30日にスタン・ベイカー銃専門店でカート自身がレミントン製のショットガンを購入したとの説がある。
発見時弾丸は3つ込めてあり、そのうち1発が使用されていた。銃には誰の指紋も発見されなかった(何故かシアトル警は5月6日まで調べずにいた)

銃身は両足の間にあり、左手で銃身を包むように握っていた。銃口は頭に向かってあり、銃身の端は腰のベルトの位置にあった。発砲時のケース/薬莢は左手側にあるコーデュロイジャッケトの上にあった。(彼は左利きであったが、ケースが左側に落ちたのは不可解である)

現場にあった手紙を警察はすぐに遺書としたが、自殺をするなどとは書かれていなく、音楽から離れる意志を綴ったファンに宛てたものであった。最後4行のみが妻子への言葉であり、あきらかに筆跡が異なって見える。

致死量の3倍のヘロインが体内から検出されている。
カートの体内に残されたヘロイン、モルヒネの血液中レベルは1.52mgs/liter. 少なくとも 225mgsのヘロインを要する。

この量のヘロインを注射した場合、数秒内に意識を失う。銃を持って自分を撃つ事はできるのだろうか?現場にあった注射器等はきれいに箱に入っていた。また、ジアゼパム/Diazepamも血液中に見つかっている。この薬はヘロインの過剰摂取を促すので症状が悪化する。

入り口のドアは鍵がかかっていたが、バルコニ―側のドアは鍵がかかっていなく手前に箱が置いてあった。

eplogue
誰がカート・コバーンを殺したか?
カート・コバーンが実は死の直前までソロ・アルバムの制作に取り組んでいた。

カートの母親は「あの子は愚か者のクラブに仲間入りしてしまった」と27歳で亡くなったことを悲しんだ。

27クラブのメンバーは悪魔との密約によって死を迎えたという都市伝説

悪魔ロノウェ(Ronove)序列27位の地獄の侯爵にして大伯爵、死の連鎖で不気味な儀式のようなものを示唆している。

悪魔との密約により、そのたぐい稀な才能を得て偉大なロック・スターの名声を手にし、その代償として27歳で命を終えるとしたら、一瞬の輝きを残し、あまりにも早く駆け抜けた人生と言えるだろう。

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